「視覚への疑い」を読んで
以前読んだ後藤さんの文章が興味深く、自分もいつか「見ること」について書きたいなと思っていた。そこからずいぶん時間が経ってしまったし、書いてみたらだいぶ違う話になってしまったけど、せっかくなので残しておく。
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後藤さんと同じように、自分も小学生の頃に「自分が見ているものは本当に実在しているのだろうか」と疑っていた時期があった。
そのせいか今でも「見る」という話にはわりと興味がある。
ヒトの視覚
そもそもヒトの「見る」という行為はどのようなものだろうか。
少し長くなってしまうが、「心の多様性 脳は世界をいかに捉えているか(大学出版部協会)」から、中村哲之先生の章にある説明を引用する。とても素敵な説明だと思っている。
「視る」ためには、外からの光を眼から取り入れ、眼の奥にある網膜の視細胞(光を感じる細胞)で電気信号に変え、脳に送ります。 そして脳で複雑な処理をすることで、「視る」ということを実現しているのです。ここで重要なのは、「視る」ということがこうした眼から脳に送られるまでの情報処理の結果経験される「主観的」な体験だということです。「視る」ということは絶対的なものでなく、自分が視ている世界は唯一のものではありません。
つまり私たちが「見ている」と思っているものは、眼から取り入れたものを脳がうまい具合に処理している結果なのだ。
眼から取り入れた情報を脳内で忠実に再現しようとすると大変なコストがかかる。このため脳はたくさんの情報の中から、重要なものを効率的に抜き出して再構成する仕組みになっているらしい。
よく「ヒトは自分の見たいものしか見ない」なんて言ったりするけれど、これはあながち間違ってもいないようだ。
中村先生の説明の中で特におもしろいのが「主観的」という言葉である。
後藤さんの記事内に以下のような疑問が書かれているけど、これに対する答えは「厳密に言うと『違う』『まったく同じではない』が、もしかしたら近いかもしれない」みたいな感じになるんだろうか。
見えていると認識しているものは、他の人と同じなのか、違うのか。
自分が見ている世界は実在しているのか?
最初の方にも書いたが、子供の頃の自分は自身の感覚を疑っていた。
自分が見ているものと、友人が見ているものは果たして同じなんだろうか?
自分が今何かに触れているこの感覚は本物なんだろうか?
自分の見ている世界は本当に実在しているんだろうか?
……って疑っている自分は確実に実在するよね!って言ったのがルネ・デカルト。
Cogito ergo sum(我思う故に我あり)という有名な命題である。
しばらくして「独我論」という言葉を知ったときは、感情の高まりと同時に力が抜けたような感覚になったことを覚えている。自分の感じていた正体不明の現象にすでに名前がついていたことに、安心したのかもしれない。
ちなみにデカルトの例の命題については未だに何となく腑に落ちていない。うまく言語化できていないけど。
視点の違いによって見えるもの
ちょっと脱線するが、マット・リドレーの「やわらかな遺伝子(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)」に、以下のような文がある。
視点の違いによって見えるものが異なるという話だ。
類似性は差異の裏返しだ。ふたつのものは、ほかのものと違うという点で似ていることもあれば、片方が別の何かと似ているという点で違っていることもある。個人についてもそうだ。背の低い男とのっぽの男は違うが、女と比べればふたりは似ている。種でもそうだ。男と女はずいぶん違うようだが、チンパンジーと比べれば、毛のない肌、直立した姿勢、突き出た鼻などといった類似性が目につく。
人を好きになること、「見る」ということ
さらに脱線するけど、ルネサンス期の哲学においても「見る」という行為には特別感があったようだ。
恋する人は屍である
これはイタリア・ルネサンス期の哲学者、マルシリオ・フィチーノの言葉。
「屍」という単語から一見恋愛に否定的な話のようにも思えるが、実際はまったくの逆で、「恋している人は自分を顧みずにいつも相手のことだけを思っている→考えるという魂固有の働きを自分で行うことができなくなる→魂固有の働きができない→屍」という話なのだ。
恋をし、自分を捨て、相手と同じ視点を得る。
自分の視点に相手の視点を重ねることができる。
この時代まで一部の人々は次のようなことを信じていたらしい。「眼は光を持っており、その光は精神の蒸気を伴い、その蒸気は血液を連れている」。つまり人が見つめ合ったとき、相手の光と精神と血液が入り込むのである。相手の中に入った血液は心臓へと向かい、このとき精神もともに相手の心臓へと向かうのだと。
実際にはそんなことはありえないし、他人の血液と精神が心臓へ到達するって書くと何だか怖い感じがするけど、ちょっとロマンティックでもある。
みんなが見ている世界
最初の話に戻るが、ヒトが「自分の目で見た」と思っているものは自分の脳が補完した結果である。自分の目で見たものがいかに曖昧で不確かなものなのか。
脳による補完が効いている以上、個体間で認識が異なるのは仕方ないことなのだ。
と分かっていても、実生活でそう割り切るのは難しいことなのだけど。
一方で、同じものを見ているはずなのに「自分と相手が世界を違う風に捉えている」のはおもしろいことでもある。
たまには自分の視覚や視点を疑ってみるのも楽しいかもしれない。
当初はトリの視覚についても書くつもりだったのだけど、ヒトのことを書いていたら結構長くなってしまったので、トリの話はまた今度。
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フィチーノの話が載っている「哲学のことば」は児童書で、優しい文章で書かれている。左近司先生の本だと「哲学するネコ」もよいけど残念ながら絶版。
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タイトルに「子ども」と入っているけど、子供の頃に芽生えた疑問を抱えたまま大人になった人向けだと思う。
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遺伝子の本としては内容が古いと思うので、読み物のひとつとして。